今日は、言わずもがなの東日本大震災から丸15年である。

14時46分、私はスポーツジムで走っていた。

ちょうど石原東京都知事が出馬表明するためか、ワイドショーは都議会を映していたように思う。

議場が結構あわただしくなるほど、関東は揺れているなと思った記憶がある。

風呂に入って帰宅したらテレビが阿鼻叫喚の地獄絵図を映し出していた。

神戸の経験があったので、医師会からの東北派遣の医師団に立候補したが、整形外科はお呼びじゃないのか、選に漏れた。

避難所こそ、整形外科が必要なのにと歯噛みした。

日本全国が鎮魂自粛モードに入った。

私はこれも違うと思った。金を使って経済を回そうよと思った。

クリニックのゴルフコンペはこの後10年東北チャリティコンペとなる。

それまで東北の地を踏んだことがなかったが、5か月後の夏休み、家族で車で東北旅行。一番下の息子は5歳だった。その時でもガイガーカウンターは購入できなかった。

まずは原子力災害を受けた福島から。浜通りに近づくと、ブルーシートに覆われた家屋が増えた。道路もひどい状況だった。放射能汚染土?か道路脇に山積みだった。

余震と放射能にビビりながら、福島中を旅した。被災者を受け入れたホテルに泊まり、女将と泣いた。娘たちも、何かしらの大きな影響を受けて成長したと思っている。

この時、東北太平洋側の日本酒のうまさを知った。以後、ひたすら被災地の酒を購入することになる。

秋には同級生の勝谷誠彦君の呼びかけで、「ひたすら散在するおっさんツアー」を敢行した(写真)。磐梯山を望む黄金色の稲穂に日本の原風景を感じた。国を守ろうと感じた。

翌年は診療所の職員と、再度被災地の旅行をした。海岸近くまで行って、道や堤防がなくなっていることに恐怖した。

大きな学会も仙台で開催された。被災地の経済を回すためである。上空からの松島空港に涙した。

一人旅もして三陸を廻り、全く何もなくなった真っ暗な「陸前高田」駅で呆然と立ち尽くした。

令和元年、天皇の名代気取りで、三陸に家族で鎮魂の旅をした。ここで津波の爪痕を知ることになる。愕然とした。

三陸には巨大な防潮堤が構築され、街からは海が見えなくなった。それがいいのかどうか。しかも今後、防潮堤の維持費が重くのしかかることになる。

あえて言うが、「あつものに懲りて膾を吹く」の例え通り、未だに原子力発電を忌避する国民性。イラン危機の現在、石油価格が上昇すれば、エネルギー問題が惹起することは必然。

3.11。日本はどこへ進もうとしているのか。

挑戦しない民族に未来はない。