「終活」。
大嫌いな言葉です。
老いてきた自分が、臨終を迎えるにあたり、墓から戒名から葬式の式次第まで準備する。というところでしょうか。
思い上がるなよ。
私は人生は、善い死を迎えるためにあるのだと考えています。
信心深くもないので、来世なんかはあまり考えません。
簡単に言えば、私が死んで、残された私に関わりがあった人々がどう私の死を悼んでくれるのか。がその人の人生のすべてじゃないでしょうか。
葬式も、その死を悼む人が多ければ、盛大になったり、笑顔の絶えないものになることもあるでしょう。
日を改めてお別れの会を行うのも、それはいいものと考えます。
ただこれを死んでいくものが考えちゃいけない。
あくまで送る側の考えです。
ただ、送る側も自分の都合しか考えない傾向がありますね。
よく、家族葬ですませました。といううすっぺらな文面のはがきが届きます。
これにも私は非常な憤りを覚えます。
故人と最期の別れをする機会を奪われるのですから。そんな事情も知らない人たちに、一方的に関係を断ち切られたくない。
たぶん、後日お線香をあげにくる方で、かえって家族は困るのでないですか。
案外、仏壇もなかったりして。(他宗教はどうするのでしょうか)。
父の葬式は、生前から言っていた通り、自宅で(非常に狭くて困りました)行い、河内長野の山奥まで皆様にご足労いただきました。
通夜は映画音楽を流し続けました。勤務医でしたから、忌引きもいただきました。
告別式の朝の、凛とした冷たい空気は忘れられません。
本人は満足だったと信じています。誰が信用できる人間かも峻別できましたし(苦笑)。
いずれは来る、母の時は大変ですね。
まず開業医は診察を休めない。日取りに無理が生じることはあり得ますね。
また弔問してくださる方も多くなるでしょう。私が望むところではありませんが。
母は派手なことが嫌いなので、できるだけ失礼がないようにしつつも、人目を憚らず泣いて酔っぱらって、思い出話を語り尽すような究極の家族葬を目指したいと思います。
これとて本人の望むものではないかもしれません。
妹と二人ですべて決めます。非常識の誹りを受けてもかまいません。私たち二人の母ですから。
こそこそと葬式費用を貯めている節がありますが、そんなもの楽しいことに使ってほしいものです。
私たちのできる範囲で執り行うのが葬式ですから。
そうだな、来年は長女が成人だから、一緒に遺影を写真館に撮りに行こう。
今の元気な時が、遺影にはふさわしいと感じます。
皆さん、もう少し死ぬということを真剣に考えたほうがいいのではないですか。人生楽しくなると思いますよ。