リオパラリンピックが閉幕した。障碍程度のカテゴリー分けが微妙で、それゆえ勝負の機微がもひとつという恨みはあるけれど、熱戦の毎日だった。やはり時差と仕事の関係で、ほとんど見られなかったんだけれど、少し見ただけでも失礼だが涙が止められなかった。仕事の関係上、障碍者の事を少しは理解しているつもりだった。でも甘かった。彼らは完全にアスリートだった。そしてまた彼らの眼差しや表情から、競技に費やした人生の凄味を真正面から受けてしまった。選手の発する言葉も素晴らしかった。選手ではないけれど、閉会式でパフォーマンスを披露した、視覚障碍者の「私は眼が不自由なのではなく、視覚を用いない人生を生きているのです。」私は喉から出てくる声を抑えるのに、息が詰まった。画面が見えなくなった。先天的障碍を持つ人、どうみてもヤンチャの果ての方。いろいろである。「障碍者は清廉であれ」と思いたがる世間に「あほかいな」と感じていた。彼らはそんな私の浅い思考の遥か超越していた。心から2020TOKYOパラリンピックでは、声の限りに応援しようと決意した。閉会式の東京PRパフォーマンスが、メチャクールでかっこよかった。プロデュースもさることながら、これにGOサインをだした責任者に、心から拍手を贈りたい。ピチカートファイブ!これを持ってきたセンス脱帽です。最近のオリンピック開会式は、冗長で退屈だったけれど、期待できるんじゃねぇ?高齢者の増えた日本で、「ポジティブ」にオリンピックをとらえる心構えを、我々は要求されてるのではないでしょうか。これは、政治活動費をはじめ、糞野郎の集団である地方議会を変えることとつながっている。我々が一気変革する必要に迫られている。4年後の日本はどうだろう。