地震発生後、医療ボランティアの選から漏れた私は、とにかく消費した。

そしてその夏休み、東北家族旅行を敢行した。

それまで東北を訪れたことはなかったのだ。

息子は6歳になったばかりだった。娘は思春期の中高生。誰も福島へは行かないから宿の予約はすんなりだった。浜通りは立ち入りすら禁止されている区域があるから宿は会津にした。

放射線量は気にはなったが、ガイガーカウンターは市場から消えていた。

大阪から車で行った。福島まで約1000km弱。パリからウィーンまでくらいだ。途中安曇野で一泊。そこから新潟まわりで福島へ。被災地が近づくにつれ東北道の路面は荒れてきた。

いわき市役所は自衛隊の車が集結していた。そして海が近づくにつれ、倒れたブロック、波打つ歩道、いがんだままの鉄柱、屋根を覆うブルーシート。

それでもアクアマリン福島は開館していた。まわりの公園や石畳はオブジェかと間違えるほどいがんでいた。すぐそばには海上保安庁の巡視船。24時間テレビの舞台も設営されていた。胡散臭さ満載だったけど。

宿泊先の土湯温泉はすでに営業を取りやめているホテルもあった。私たちが宿泊したところは、被災者の方々を収容していた。当選宿泊客は少なかった。

女将さんが、申し訳なくなるほどに喜んでくれた。母は手を取り合って泣いていた。

私たちにできることはふたつ。まず福島は危険であるという風評を、柳に風と受け流す国民がついていることを現地の人に知ってもらうこと。そして、金を使うこと。

とにかくあちこちで金を使った。少しずつ、そして多くのところで。おやつも現地調達だ。

戦力になれないボランティアより、散財すること。

福島の酒蔵をめぐり、喜多方でラーメンを食し。お土産もしこたま購入した。

現地で2泊して、帰路は1000km一気に走った。80歳を前にした母はよくついてきたものだと思う。

この旅で東北の食と酒に目覚めることになる。

また子供心に引っかかるものがあったのだろうか。

次女が突然医学部に進むと言い出し、わざわざ東北地方の医学に進んだ。

家族全員何かを心に深く刻んだ旅だった。