3月11日、もうすぐ10年である。
ある意味、私や家族の生き方を変えたあの日。
平成23年3月11日午後2時46分、私はスポーツクラブのランニングマシン上にいた。マシンの前のTV画面のワイドショーは、確か石原慎太郎東京都知事の再選に向けた出馬表明があるはずの都議会議場を映していた。
大阪も揺れたそうだが、マシン上では気づかなかった。ただ画面から東京の容易ならぬ揺れを知ることはできた。まさか東北があのような惨劇に見舞われていようとは思わなかった。
刻々入る情報に血の気が引いた。早々に運動をやめシャワーも浴びず自宅に戻った。そのころには津波の第1波の知らせが報道されていた。日本のほぼすべての沿岸が赤枠で囲まれている。
神戸の時は、国立病院に勤めていて、仲間の先生とリュックに医療道具を勝手に用意して準備したが、1週間近く待機を指示された。
まさかその二の舞は踏むまいと考えていたが、時の政府は輪をかけて屑だった。
さすがにJ-MATが組織され、医師会も割と早く医療ボランティアを組織したと思う。私も立候補したが、整形外科だからか人選にもれた。ロコモの重要性が理解されてきた今なら、結論はちがうかもしれない。
堺市の医師は岩手県の大槌町へ出かけた。ひょっこりひょうたん島の舞台である。3年前に訪れて、震災の爪痕を目の当たりにし、心が暗くなった。
東京も電力事情が悪化し、ただでさえ暗い世相をさらに暗くした。
世の中は、自粛ムード一色になった。
その中で、故勝谷誠彦君は連日自身の配信メールで、「自粛するな消費せよ」と叫んでいた。日本の経済を回せというのである。こんなことを言っていた人は寡聞にして他に知らない。
私は大いに共感した。大阪でも宴会やゴルフコンペはことごとく自粛となった。医師会で自粛反対の意見を述べると、白眼視された。
コロナ禍で、何の根拠も示されていないにも拘わらず、冬眠いや仮死状態にある今の日本とだぶる。成長しないのは世間なのか私なのか。
思い返しても笑ってしまうのだが、あの時は結構散財した。清潔必需品は被災地にまわすので我慢した。
めったに購入しない衣類などを百貨店で買い、ゴルフクラブも買い替えた。家族での外食を増やした。ゴルフするたびに義捐金を送った。
当院で行っていたゴルフコンペは敢然と敢行した。理念に賛同していつも以上に参加者が増えたのは嬉しかった。
あれから10年、震災後被災地を想い、ささやかながら私が行ったバカげた活動をしばらく記す。