阪神淡路大震災から30年。私は神戸の高校に在学していたので、友人がSNSなどで当時を語っているので、私も何のお手伝いもできなかった一人として、当時のことを少し書きます。

仏国留学のあと貝塚市にある国立病院勤務でした(すでに統廃合で閉院)。いわゆる御礼奉公で若気の至りで一人息巻いていました。

もうすぐ起床の時、それは起こりました。

実家のそばのマンション住まい。妻のお腹には3か月の長女。何とも不気味な長い揺れ。私は妻を守ることもできず腹這いになって布団の中へ。情けない。彼女は今も私を軽蔑しているかもしれません。

這う這うの体で、テレビはつける。こんな時NHKの実力が出る。宮田修アナウンサーの淡々とした実況。神戸の中心に震度表示が出ないのが、事の重大さを感じさせました。宮田さんはNHKを退職後神主になられたようです。当日の話を聴きたいものです。

家族は無事だし、とりあえず病院へ。和歌山から通う医師もいるのですが、高速道路はすべて通行止め。始業前にいたのは私と呼吸器外科の先生だけでした。

とりあえず全病棟を手分けして回診。入院患者さんの無事を確認しました。

病院の廊下は安全確保のため、防火扉が自動で閉まったのですが、当直の事務職員はこんな時でも寝入っていたようです。当直婦長が開けて回ったそうです。

病院には事務職員が多くいるのですが、ほぼ全員「屑」であると断言します。こいつらのせいで、病院運営に支障が出るのは今も変わりません。反吐がでる。

呼吸器の先生と二人で行動すべく、まずは救援のための救急物資をパックしました。今からでも神戸へ行こうと。DMAT(初動救援の医療団)もないですからね。やる気だけです。ただ、上からは(これも事務方です!)「指示あるまで待て」

公務員の悲しさ、勝手すれば懲戒です。勝手は許されない。歯噛みの毎日でした。

1週間くらいして、有志で派遣されることになりました。ここでの最初の指示は「被災者は悲しみの底だから、笑顔を見せるな」

屑も極まれりでしょう。役人の考えることはこの程度だと、」皆さん知っておいたほうがいいですよ。あいつらはどんな時でも体裁を整えることしか頭にありません。「下衆」です。

これとは別に、西宮の今津に親類がいましたので、母と、ありったけの物資を背負って見舞いに行きました。今津あたりは物資が届いていたんですね。

「何しに来たん?」という対応をされ、頭にきてこれが引き金になったのでしょうか、彼らとは絶縁しました。せいせいした。

実家に暮らしていた妹は、この日宝塚「天海祐希」の大劇場公演のチケットを買うために始発で(我が家は河内長野の三日市町でした)でて梅田のチケットセンターででかけて、散々な目にあったそうです。あの頃はネットもないから、早朝から並んだのです。

新装なったばかりの宝塚大劇場も被害を受け、けっこう長い間宝塚歌劇は休演でした。

私もその週末、「整形外科専門医試験」が梅田のリーガロイヤルホテルでおこなわれる予定だったのですが、シャンデリアが落ちるなどの被害が大きく、延期。結局成田空港のそばにあるホテルを利用して行われました。不要な出費に腹がたったのを覚えています。

その後「東日本大震災」「熊本大地震」そして「能登大地震」と日本は震災を避けて通れません。

不思議と、総理大臣が無能な時に厄災は起こる。

阪神=村山富市 東日本大震災=菅直人 能登大地震=岸田・石破

私は阪神の経験と、東日本の実態を知って、残念だけど役所(政治家・役人)を信じてはいけないと学んだ。幸せになることはない。

まずはいつ起こるかもわからない南海トラフ自身に万全の備えを。

避難所に行けば何とかなると思うなよ。無理。

収容能力を超える人々が来る。体を横てる場所もない。物資は三日と持たないだろう。東京から福岡まですべてがやられるから、輸送も無理。どこにも食料、水は届かない。

医療機関も経営が苦しいから薬剤などの備蓄もない。

当院でも怪我の処置は重傷者20名が限度だろう。軽症者は診察しません。ほっといても大丈夫な人は治療の対象にしないのが災害医療です。逆に助けることのできない命は助けません。頑張れば助かる命に注力するのです。

とりあえず、被災したら、誰にも頼らず1週間自分で生き延びるご準備を。

水ペットボトル一人20リットル。缶詰など3食1週間分。温かいものを食べようと思わない。それと簡易トイレ。食べれば出る。当たり前の話。

泣き言言わずに済むように、今から準備を。

明日かもしれんよ。助けてもらおうと思わないこと。誰も助けは来ないから。